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ラグビーのワールドカップがもうすぐ終わりますが、前後して世界野球プレミア12(侍ジャパン)が始まります。
代表監督の稲葉篤紀さんは、主力選手に辞退者が出ているようで、人選に苦労しているようですが、ある意味若手選手には、絶好のアピールチャンスと言っても良いでしょう。
今回は、稲葉篤紀さんの経歴、家族、イチローさんとの関係について書いてみました。
※2019年11月17日に、世界野球プレミア12の決勝戦(日本-韓国)が行われ、日本が韓国を5対3で下し、2009年のWBC大会以来、10年ぶりの「世界一」に輝きました。
おめでとうございます!
稲葉篤紀プロフィール
名前:稲葉篤紀(いなばあつのり)
生年月日:1972年8月3日
年齢:47歳(2019年10月時点)
出身地:愛知県北名古屋市
身長:185㎝
体重:74㎏
投打:左投げ左打ち
ポジション:外野手、一塁手
プロ入り:1994年ドラフト3位
引退年:2014年(パリーグクライマックスシリーズファイナルステージ第6戦が最終出場)
選手歴:中京高校→法政大学→ヤクルトスワローズ(1995年~2004年)→北海道日本ハムファイターズ(2005年~2014年)
監督歴:日本代表<侍ジャパン>(2017年~)
経歴①(プロ入りまで)
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稲葉篤紀さんが野球を始めた時期ははっきりとは分かっていませんが、高校は中京高校に進学し、3年生の時に、愛知県決勝まで進みますが、敗退し、甲子園出場は叶いませんでした。
高校卒業後は、法政大学に進学し、1年生の時から試合に出場しますが、故障を抱えていたこともあり、レギュラーに定着したのは、3年生になってからだそうです。
その後、日米野球の大学代表や大学ベストナインに選ばれプロ注目の選手になりました。
1994年のドラフト会議で、ヤクルトスワローズから3位で指名を受けますが、これには裏話があります。
ヤクルトの野村克也監督(当時)が、息子である野村克則さん(当時明治大学3年)の試合を観戦した際に、対戦相手が稲葉篤紀さんの所属する法政大学でした。
この時の稲葉篤紀さんのプレー(この試合で本塁打を放つ)を目に止めていた野村監督は、ドラフト会議当日に「あの法政の左(稲葉篤紀さん)はどうなっとるんや」と発言し、偶然にもヤクルトのドラフト3位の枠が空いていたことから、稲葉篤紀さんの指名に踏み切ったそうです。
後年、稲葉篤紀さんは「近鉄バファローズから指名される予定だった」と話しており、ヤクルトの指名がなかったら近鉄の選手になっていたかもしれないですね。
結果的に、稲葉篤紀さんはヤクルトスワローズに入団しました。
経歴②(プロ入り後)
小学生の頃、親父の付き添いで初めて観に行った野球観戦で決勝ホームラン打ったのを観てから神と崇めてます。
ロッカーとか絶対41番にしてたな〜笑#稲葉篤紀 pic.twitter.com/Zn2jqUknUl
— ༺考平༻ (@KOHEI_INDIAN) 2019年10月26日
ヤクルト入団後は、外野手としての練習を始め、1年目から1軍でプレー。
2年目にはレギュラーに定着し、規定打席に到達し、打率.310をマーク。
1997年にはヤクルトのリーグ優勝と日本一に貢献。
1998年に故障し、2000年まではスランプに陥っています。
2001年には、打率.311、25本塁打、自己最多の90打点をマークし、4年ぶりのリーグ優勝と日本一に貢献し、ベストナインに選ばれています。
しかし、その後は思うような成績を残せず、2004年にFA宣言し、メジャリーグ移籍を目指しますが、オファーがなく、北海道日本ハムファイターズに移籍しています。
日本ハム時代は、1学年上の新庄剛志選手から「楽しんで」と声をかけられ、日本ハムの楽しむ野球に驚かされたと語っています。
移籍直後から長打力の強化に取り組み、3番や5番を任せられることも増え、2007年には首位打者(打率.334)、最多安打(174安打)とプロ13年目にして初のタイトルを獲得。
国際大会の日本代表(北京五輪、WBC)にも選ばれています。
その後、2012年まではチームの中心選手として活躍しますが、ケガや加齢の影響で衰えが目立ち始め、2014年に現役を引退しています。
その後は、テレビなどで野球解説者として活動しますが、2015年からは日本代表(侍ジャパン)の打撃コーチに就任し、2017年に小久保裕紀監督の後任として、日本代表監督に就任しています。
嫁について
稲葉篤紀さんは、ヤクルト時代に一般女性と結婚しています。
子供を一人もうけ、その後に離婚しています。
その後、2012年に再婚しています。
結婚当初、稲葉篤紀さんは40歳、奥さんは26歳の年の差婚でした。
野球選手は姉さん女房が多いですが、逆に超年下女房と言うのは珍しいですよね。
気になる馴れ初めですが、怜奈さんが稲葉篤紀さんの大ファンで、関係者を通じて知り合い交際に発展したのではないかと言われています。
奥さんは、ホステスだったのではないかと言われていますが、これはガセネタで、札幌を中心にモデル活動をしていたようです。
2人の間には、2014年に男の子が誕生していますが、奥さんが現在もモデル活動をしているという情報はありませんので、現在は専業主婦なのかもしれませんね。
イチローとの関係は?
稲葉篤紀さんとイチローさんは出身地が近いこともあり、仲が良いようです。
学年は稲葉篤紀さんがイチローさんよりも一学年上だそうで、少年時代には同じバッティングセンターに通っていたそうです。
キャスター時代の稲葉篤紀さんが、当時メジャリーガーだったイチローさんにインタビューしに行った際は快く応じています。
稲葉篤紀さんが「イチロー選手」と言うと、「止めてください。イチローでいいです」と言っていたこともあり、稲葉篤紀さんはイチローさんのことを「イチ君」と呼んでいると明かしています。
イチローさんからすると、稲葉篤紀さんが気の許せる数少ない先輩だったのかもしれませんね。
不振のイチローを救ったのは稲葉篤紀?
2009年のWBC大会。
この時、イチローさんは信じられないくらいの不振で苦しんでいました。
※こんなに打てないイチローが信じられない人も多かったのではないでしょうか。
ですが、イチローさんは自身が打てなくても、ベンチで声を出し、チームを鼓舞していました。
実は稲葉篤紀さんはこの大会にチーム最年長選手として出場しており、イチローさんのために何かできないかと考えたそうです。
最初は「世界のイチローに声をかけるなんて」という遠慮があったそうですが、稲葉篤紀さんが凡退したイチローさんに声をかけると頷いてくれたと言います。
イチローさんより、年上の稲葉篤紀さんにしかできないことだったと思います。
「イチローのために」という想いが若い選手にも波及し、皆がイチロースタイル(ソックスを上げるスタイル)になったりしたこともありました。
イチローさんが決勝戦(対韓国)で放ったタイムリーヒットを覚えている方もいるかもしれませんが、一塁上でイチローさんは、「このヒットはチームのみんなが打たせてくれたヒットだった」と言い、盛り上げるベンチを直視することができなかったそうです。
理由は泣いてしまいそうだったから。
もう10年前の話ですが、あの時は日本中が盛り上がりましたね。
まとめ
稲葉篤紀さんは監督経験はありませんが、人間性を買われての監督就任のように思えます。
コーチは日本ハム時代に選手兼任コーチ、日本代表では打撃コーチは経験していますが、監督経験はありません。
主力選手に辞退者が相次いでいることもあり、人選には苦労しているようですが、練習試合は順調のようです。
今回は、優勝(世界一)という最高の結果に終わりましたが、東京五輪では他の出場国もリベンジを考えているはずなので、さらなる高みを目指して欲しいと思います。
金メダルが取れたら、最高ですね!
以上、ここまでお付き合いありがとうございました。
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