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こんにちは。キローコです。

イラストレーターの長尾みのるさんが亡くなったそうです。

キローコは初めてこの方を知ったのですが、

イラストという言葉を考案した方なんですね!

そのほかにも新しいもの好きなようで、

日本初のものがあるんですって。

気になったので調べてみました。

プロフィール

お名前は長尾みのる(ながおみのる)さん

本名は長尾実さん

生年月日は1929年6月4日88歳

2016年10月6日に亡くなられました

出身地は東京都中央区新富町(京橋)

 

ご実家は製本業を営んでいて、

長尾みのるさんは小さい頃は病弱だったそうです。

他の男の子はチャンバラや戦争ごっこをして遊んでいましたが、

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病弱な長尾みのるさんは絵を描いていたんだとか。

 

 

大学卒業後は服飾専門学校の講師をしながら

舞台美術の勉強をしていたそうです。

 

1953年24歳に舞台美術の友人の誘いで海外旅行へ出かけることに。

戦後間もない時代でしたから、手続きなど大変だったみたいですね。

外貨が持ち出し禁止だったため、無一文で海外へ出たのだとか。

 

すごいチャレンジャーw

キローコだったらそんな危ない橋は絶対わたりませんw

 

海外先でどのように過ごしていたかというと、

自分の絵を売りながら渡り歩いたのだそうです。

 

運良くブラジルで大富豪に出会うことができ、

絵が高値で売れたのだとかw

行く先々で絵を売って世界一周旅行して帰国したとか、奇跡ですよねw

 

日本に帰国後は、

初のカラーフォト・デザイン展を銀座で開催

また、永六輔さんに頼まれて「アサヒグラフ」にのせる小説の挿絵を担当したときに

編集者に対してイラストレーション、イラストレーターという言葉を初めて使ったそうで、

編集者がそれを気に入ったんですって。

挿し絵ではなくてイラストレーションという言葉を使おう、

でもイラストレーションは長いからイラストでいこう

という話になって、それが日本に定着したのだそうです。

 

言葉の発明者ですねw

 

そのほか長尾みのるさんは新しいものが好きみたいで、

個人で自宅に有線放送をひいた

カラーコピー機を仕事場にいれた

などのことを実施して当時の新聞記事になったこともあるんだそうですw

 

絵描きでもあり投資家でもあったんだ(^^)

 

その後もイラストレーターとしてイラストを描き続け、

1976年に講談社・出版文化賞を受賞されています。

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出身大学は?

長尾みのるさんの出身大学は早稲田大学(旧)工芸美術研究所

当時工芸美術研究所が新設されて生徒を募集していると言うことを

新聞広告で知り、すぐに飛びついたのだとか。

 

さすが、新しもの好き!

 

吉田謙吉さんという舞台美術家に魅了されて、

絵描きから舞台美術の道にシフトしたのだそうです。

そこから舞台美術の友人の誘いで海外旅行して、初めてのイラストレーターとなってとつながるんですから

人生ほんとになにがきっかけになるかわかりませんね。

 

家族について!

長尾みのるさんの葬儀の喪主が奥様の玲子(れいこ)さんだと

報道されていたので、ご結婚はされているようです。

喪主を務められるくらいですから

奥様はお元気な方なのかもしれませんね。

 

お子さんはいらっしゃるのでしょうか?

調べてみましたが情報はみあたりませんでした。

一般の方だと公表しないでしょうから、

わからないですね。

 

長尾家の跡取りがいることを願います。

 

作品はどんな感じ?

長尾みのるさんの作品はどんな感じなのでしょうか?

公式ホームページに多数掲載されています

NAGAOの絵

永六輔さんの挿し絵を担当していた頃は

エッセイに自由な構図で絵をつけるというスタイルだったそうです

 

「革命屋」「バサラ人間」という作品をだした1965年くらいからは

イラスト小説というスタイルになったんだとか。

ストーリー・イラスト・構図・色のすべてを長尾みのるさんが担当し、

そのスタイルは他のイラストレーターに影響を与えたほどなんですって。

 

1975年頃は文庫本の装丁を仕事としていて

表と裏を同じデザインにするスタイルだったとか。

これもまた話題になったそうです。

 

長尾みのるさんという方は

好奇心旺盛で臆せずチャレンジできる

度胸のある方だったんですね(^^)

 

幼い頃病弱だったというエピソードが

頭の中からすっかり忘れ去られていましたw

多くのイラストレーターに影響を与えてくれた長尾みのるさん

ご冥福をお祈りします。

 

最後までおつきあいありがとうございます。

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