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関白(かんぱく)、太政大臣(だじょうだいじん)、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)

歴史の教科書や番組で、よく出てくる役職の関白(かんぱく)、太政大臣(だじょうだいじん)、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)ですが、実際、どの役職がどういうものなのかわかりずらいところはありませんか?

今回は、関白・太政大臣・征夷大将軍についてまとめてみました。

関白とは?

引用元: ウィキペディア(豊臣秀吉)

関白とは、成人した天皇を補佐する役職で、実質上は公家の最高位で、敬称は殿下。

関白という役職ですが、中国の前漢時代に、時の皇帝:宣帝が、自身に意見のある場合は、実力者であった側近の霍光 (かくこう)に 「関(あずか)り白(もう)す 」ようにしたことに由来しています。

日本で最初の関白は、藤原基経で、就任の時期は880年、884年、887年と諸説あります。

平安時代に藤原氏が関白・摂政を独占しますが、武家の台頭と共に、存在感が薄れていきましたが、鎌倉時代以降は関白につけるのは藤原氏の子孫にあたる五摂家( 近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家 )でしたが、安土桃山時代に羽柴秀吉が、朝廷から特別に豊臣姓を与えられ、1585年に関白職に就任しています。

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ちなみに関白を引退した人を太閤(たいこう)と呼び、豊臣秀吉が有名ですが、もちろん該当する人物は他にもいます。

それだけ、秀吉の力が強かったということですね。

豊臣秀吉と甥の秀次が務めた後は、江戸時代に再び関白職は五摂家 の手に戻ります。

明治維新での王政復古の大号令(1868年1月3日)で関白職は廃止されますが、摂政職(天皇が女性や子供の場合の役職)は残り、皇太子などの天皇の公務を代行できる立場として現在の皇室典範に規定されています。

一番、位の高い役職は関白で間違いないでしょう。

太政大臣とは?

引用元: ウィキペディア(平清盛)

太政大臣とは、元々、天皇の一族が就く役職でしたが、律令制度(奈良時代)が始まった時は、太政官と呼ばれる役所を統治する役所で、律令政治のトップとされてきました。 太政大臣は人格的にも優れている人物が就くべきだとされ、ふさわしい人物が現れたときにだけ与えられる役職で、いわば臨時職でした。

857年に藤原良房が任命された時には、摂政と同等の権限を持つようになり、その後、藤原氏の摂政・関白の独占が進むと、太政大臣は名誉職に変わっていきました。

その後、武士が台頭した際には、平清盛が武家で初めて、太政大臣に就任しています。

武家で太政大臣を務めたのは、平清盛以降だと、足利義満、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠の4人のみです。

明治維新後は、改定されますが、1885年に内閣制度が発足すると、太政大臣の職も廃止されています。

征夷大将軍とは?

引用元: ウィキペディア(源頼朝)

征夷大将軍とは、飛鳥時代、奈良時代に蝦夷(東国を拠点にしていた豪族)を討伐するために、作られた役職です。

いわば、軍の司令官でしたが、鎌倉幕府以降は、武家の棟梁というニュアンスに変わっています。

平安時代には桓武天皇の命で、坂上田村麻呂が就任し、蝦夷討伐を行っています。

その後、武士が台頭し、平家を倒した源頼朝が東北地方の奥州藤原氏を討伐するためという名目で就任。

これは、不仲になった弟の源義経をかくまったことを口実にしたもので、政治の実権を朝廷から奪取することに成功し、武家政権の礎を築きました。

その後は、室町幕府(足利家)、江戸幕府(徳川家)と源氏の子孫とされる大名家が任命され、江戸幕府滅亡(明治維新で廃止)するまでの約680年間、征夷大将軍は武家のトップとしての君臨することになりました。

織田信長は何を目指したのか?

戦国時代末期、豊臣秀吉は関白、徳川家康は征夷大将軍についていますが、織田信長はどうだったのでしょうか?

信長は、1577年に朝廷から右大臣に任命されていますが、翌1578年には右大臣を辞任しています。

一説では、嫡男の信忠に譲るつもりだったと言われていますが、これは実現していません。

その後、朝廷の役職には就かなかった信長ですが、1582年4月に朝廷は信長に 三職推任(さんしきすいにん)を提案しています。

三職推任とは、「関白、太政大臣、征夷大将軍の好きな役職に就いて良い」というかなり破格の提案でしたが、信長はこの時「自身が上洛した際に回答する」とし、返事を保留しています。

その後、6月に信長は上洛し、朝廷に参内する予定でしたが、明智光秀に急襲され(本能寺の変)、自害しています。

結局、信長が役職に就く意向があったのか、なかったのかは分からず仕舞いで、学者の間や歴史ファンの間でも意見が分かれています。

以上、ここまでお付き合いありがとうございました。

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