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名前 神山 清子(こうやま きよこ) ※旧姓は「金場清子」
生年月日 1936年8月2日
職業 日本の陶芸家
生まれ 長崎県佐世保市
備考 骨髄バンクの立ち上げに尽力
2019年9月30日、陶芸家の神山清子さんの半生を参考にして作られたNHK連続テレビ小説「スカーレット」が放送開始となりました。
女優・戸田恵梨香さんが演じるヒロイン「川原喜美子」のモデルというわけではなく、あくまで参考とのことです(神山さんの子育てしながら作陶する姿)が、それにしても朝ドラの参考になるような神山さんという方は一体どんな方なのでしょうか。
生い立ちから波乱万丈だった道のり、そして陶芸家として成功するまでの苦労などを調べてみました。
神山清子さんが陶芸家になるまで
佐世保市で生まれた清子さん(以降、神山さん)。
当時父親は炭鉱で働いていましたが、日韓併合の影響で日本に多くの朝鮮人が働きにきており、その炭鉱でも朝鮮人が多く、父親はその朝鮮人の人たちと仲が良かったそう。
神山さんの旧姓である「金場」という苗字が朝鮮名に似ていたことと、父親が朝鮮人と仲良かったこともあってか、神山さんはよく「朝鮮人」と言われ虐められていたそうです。
戦争末期のころに滋賀県(日野町)に移り住んだ神山一家。
ここでも、神山さんは母親が作る服がチマチョゴリに似ていたことで、再び虐められていたそうです。
終戦を迎え、神山さんは小学校3年生になっていました。
ずっと虐められることが多かった神山さんは、自然と地面に絵を描いたりと、一人遊びをするのが好きになっていました。
そのため、いつしか将来の夢は絵描きと考えるようになっていました。
しかし時代はまだ戦後。
美術学校に行きたいと思ってはいましたが、父親が承諾するはずもなく、しかたなく和裁・洋裁学校に進みました。
それでも神山さんはあきらめず絵の勉強をしたいと考え、信楽(滋賀県甲賀市信楽町)で絵の師匠を探します。
そう、信楽といえばあの有名な「信楽焼」。
当時から地元ではすでに有名だったこともあり、「信楽焼」の絵付師の仕事を探すことにしたわけですね。
ですが「女性」であることがネックとなり、なかなか弟子志願は成就せず、かなり難航したようです。
なんとか紹介により弟子入りした先で絵を学びましたが、長続きせず短期間で辞めてしまいます。
そんななか、昭和29年、神山さんは日本画家の絵付師の方の紹介で陶器製造会社に就職することになります。
しかし、正社員で採用してもらってはいたものの、かなりの薄給だったため、アルバイトもしていたたため相当な苦労を強いられます。
入社から1年が過ぎ、ようやくちゃんとしたお給料をもらえるようになった頃、運命の出会いをします。
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中学時代の1年先輩であった、のちの旦那さんとなる男性が神山さんの部署に来たのです。
すぐに恋に落ちた二人は、ほどなくして父親の反対を押し切り結婚、2人の子供にも恵まれました。
そして、貧乏暇なしであくせく働き、10年が過ぎたころ、会社の経営が傾きかけてきたのをきっかけに、神山さんは会社を退職。
信楽焼の型押しの下請けをし、生計を立てることになります。
ですが、なかなか上手くいかず、あまりお金にもならないため、どうしたものかといろいろと思案していたそう。
そんなとき、台所でヒラメキマス!
「信楽焼で食器はどうだろう?」
女性で陶芸家などいなかった当時、この発想はおそらく無かったのでしょう。
独自の手法を考案するなど、「信楽焼食器」の研究に明け暮れていた神山さん、ある時知り合いから公募展に出品することを勧められます。
なんと、これが大当たり!!
日本クラフト展や朝日陶芸展に入選するなど、かなりの注目を浴びることになりました。
引用元:「信楽焼・解説」
女性陶芸家としての苦悩、そして成功
陶器会社を経て独立、作陶を始めることとなった神山さん。
「女性が釜に入ること」は穢れだと周りに思われながらも、(いままで自分の釜を持っていなかったが)大金を叩いて電気釜を買い、仕事を辞めた夫と協力しながら、とにかく「信楽焼食器」を作りまくりました。
懸命に、懸命に・・・。
やがて神山さんは、今までの電気釜ではなく、古代穴窯で作陶したいと思うようになりました。
父親の山を売って資金を作り、レンガを重ねて土を被せた半地下式の穴窯の完成です。
名付けて・・・「寸越釜(ずんごえがま)」!!
これが評判となり、スポンサーも付き、ようやくお金の心配をすることなく作品作りに没頭できる環境となったんですんね。
しかし、夫はその環境に慢心し、まさかまさかの自分たちの弟子である女性と不倫をしてしまいます。
一言だけいいですか?・・・「最低ですね!」
泥沼となってしまった状況を見かねた長男・神山賢一の言葉で神山さんは離婚を決意、もっと良い仕事をと、改めて作品制作に力を入れます。
神山さん、38歳になっていました。
離婚のゴタゴタで資金が底をつき再び貧乏となってしまった神山さんですが、このころ釉薬を使わない古代の自然釉の研究に、憑りつかれたように没頭していました。
かなり難航した結果、通常より多くの日数炊き続けることで、焼き物にキレイな色を出すことに成功しました。
これが神山さんの名前を全国区に押し上げるきっかけとなった「信楽自然釉」です!!(NHKなど多くのメディアが当時取り上げました)
その後、韓国に行って陶芸の指導をするなど、活動の幅も広がりました。
引用元:「信楽焼 神山清子」
長男・賢一さんと白血病
離婚問題で苦しんでいるときに心配してくれた長男の賢一さん。
親の手伝いで小さいころから信楽焼に触れていました。
工業高校を卒業後、専門の施設で修業をしたうえで、神山さんのところに戻り、親と同じ陶芸家として作品制作に勤しんでいました。
1990年、賢一さんが29歳の時に、まさかの慢性骨髄性白血病と診断されてしまいます。
長女とは血液(赤血球の形=HLA)が適合せず、結果ドナー探しに奔走することになります。
このころはまだ公的な骨髄バンクは無かったので、かなり難航しましたが、賢一さんの友人や市民団体などの募金活動や支援団体の設立により、活動の輪は大きく広がりました。
また、神山さんと賢一さん二人の親子展を開いて、骨髄バンクの必要性を訴えたことで、とても多くのドナー希望者も集まりました。
着実に骨髄バンク設立の声は拡大、金銭的には逼迫していましたが、「骨髄バンクと患者を結ぶ会」を設立し、運動を本格的に開始しました。
神山さん親子は、治療と病院通い、そして運動をしながらも作陶も続ける日々が続いていましたが、神山さんの妹さんと不完全ながら血液が一致したため、骨髄移植をすることになり、運よく一時的に容体は快方に向かいます。
そして、白血病の発症からおよそ1年後の1991年、運動が実を結び、ついに「骨髄バンク」が設立されることになりました!!
素晴らしいですね、執念です、親子の想いです、同じ白血病患者たちの想いです、全国の優しき人たちの愛の結晶です。
しかし・・・残念なことに、翌年賢一さんは白血病が再発してしまいます。
再発ののちまもなく、賢一さんはこの世を去りました。
1992年4月、骨髄バンク設立からわずか4カ月後のことでした。
以降も神山さんは運動は続けており、現在は「滋賀骨髄献血の和を広げる会」の代表を務めています。
引用元:「バンク」登録へ力の限り」
神山さんの半生が映画化
2002年の12月に「母さん子守歌うたってー寸越窯・いのちの記録」(那須田稔、岸川悦子)が出版されています。
滋賀県信楽に生き、ひたすら陶芸の道を歩みつづける清子さんと、31歳の若さで白血病に倒れた同じ陶芸の道をこころざした息子・賢一さんとの、親子の記録です。
そして、この著書を元にして製作された映画「火火」(高橋伴明監督)が2005年に公開されました。
主演の清子さん役は田中裕子さん、息子の賢一さんは窪塚俊介さん、ほか、遠山景織子さん、石黒賢さん、岸部一徳さん、池脇千鶴さんなど豪華なキャストで映像化されました。
伝記的小説が出版
先の「母さん子守歌うたってー寸越窯・いのちの記録」の著者である那須田稔さんの息子さんである那須田淳さんによる、神山さんの伝記的小説「緋色のマドンナ:陶芸家・神山清子物語」が2019年の9月に出版されました。
焼き物の里である滋賀県信楽に生きる陶芸家・清子さんの、波乱万丈な、笑いと涙の人生物語を綴ったものです。
タイミング的に、NHK連続テレビ小説「スカーレット」の放送開始に合わせて、ということなんですかね。
ダ・ヴィンチニュースで著者のインタビュー記事が掲載されていますので、そちらも紹介しておきます。
引用元:「朝ドラ「スカーレット」で話題! 女性陶芸家・神山清子の半生を描いた『緋色のマドンナ』作家・那須田淳インタビュー【前編】」
NHK連続テレビ小説「スカーレット」のストーリー展開は?
まだこの記事を書いている時点では、第1話放送直後なのですが、これから朝ドラ「スカーレット」のお話はどういう形で進んでいくのでしょうか。
あくまで「参考」ということですが、登場人物も含め割と今回紹介した事実に沿っている可能性もあるかもしれませんね!
みなさん、これからの放送を楽しみにしましょう!
引用元:「神山清子特別インタビュー」
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